筋と肉と骨と力と物理学
読者サービスでエンジンの話しでもしようかと這い出てきた。
「力むな!」と言うのが中々伝わらない。
そもそも力んでいる状態に対して自覚がない。
これは身体能力の問題ではなく頭の中の、具体的に言えば小脳の中の刷り込まれた習慣の問題だ。
力んでない状態がどんなものか分からないので幾ら武術を教えて「力まずに動け」といってもゆっくりふわふわやるだけで発力が成功しない。←それ力んでる。
「力」
この日本語が諸悪の根源じゃなかろうか。
力という単語の指し示す範囲が広すぎて意思疎通が難しい。
『力(①)を抜いて力(②)を出す』
これの①番と②番の違いをどう説明すべきだろう?
今現在の私が持っている知識と語彙を総動員して表現すると次のようになる。
『筋肉の緊縮状態を解き弛緩状態にしたのち、高低差を利用した重力自由落下のエントロピーを発生させ接触地面の反作用を以て体外方向に射出する』(蛇足ながら重量物を持ち上げる場合は『腕全体の筋肉の緊縮状態を解き前腕を内旋または外旋させることで肩周りにウインチ機構を構築し対象物を掌で固定した後、背筋側に引き付けて自身の重心上に乗せる』)
この説明を一回聞いただけで再現できるなら教師なんて必要無い。高度に発達したAIが人類に置き換わって世界を支配しているならこれで良いかもしれないが、我々生身のヒト科ヒト属は寿命が尽きる前に学習によって修得する他ないのだ。
なので口でいちいち説明するよりも動かしたほうが早い。
だがそれまでに学んだ「力」への思い込みが邪魔をする。何も学んでいない子どもなら問題ないが大人になるほど難しい。
四の五の抜かさず肉体労働をやれ
もうこの一言に尽きる。肉体労働でなくてもバランスよく満遍なく体を使うようなスポーツでも良い。全身を使って行う労働は力んでいるとうまく出来ない。力みを抜いて全身を隈なく巧みに使わないと自重より重いものは動かせない。以前話したラグビー部員が良い例だ。
武術における身体の扱いが正しければ肉体労働と互換性を持つことができる。はっきり言って太極拳を10年やるくらいなら引越屋を3年やったほうが良い。筋肉バカには引越業はできない。同じ様に気功バカにも太極拳は出来ない。引越業で身体のことを学んでから太極拳をやれば言わんとする「用意不用力」が分かるはずだ。
まあエンジンの話しをしたところで車はエンジンだけでは成立しないので、こんなものは空文に過ぎない。こんな話しを有難がる連中の気はしれないが何かのきっかけになれば役にも立つだろう。
発揮される威力などは後回しで良い。そんなものはごっつい棍棒を振り回せばいいのだし、もっと言えば世を賑わす犯罪者共は強靭な肉体を持って事に臨んでいないではないか。そんな修行に耐えられる根性があればそもそも犯罪に手を染めていない。一方でそんな修行をしなくてもできるはずの事から目を背けて修行に明け暮れるのは、それはそれで性根が腐っているのだからどちらも現実逃避していることに変わりはない。
道徳を伴わない商売は詐欺だ、商売を否定する道徳は寝言だ
現実主義的に武術をやるなら自らの一挙一投足が社会とどう関わるのかを自問すれば良い。
これが武術ではなく格闘技であれば既に答えが出ている。
一つの試合に関わる人々の数と、それに伴って動くであろう経済力をみるといい。その一つの試合で何人もの人が収入を得て命を永らえている。その内容が批判的なものだろうが病的なものであろうが、それで助かっている人がいる以上は武術オタクがとやかくいうことではない。寝言は寝てから言うものだ。
誰かの収入を生み出すことは犯罪率の低下に貢献する。逆を言えば生活困窮者が増えるほど犯罪率は増加する。犯罪が増加すれば武術の出番は増える。我々のお爺さんお婆さんは孫たちが武術なんて使わなくて済むような世の中になることを願って進んで犠牲になったのに、それを台無しにするような事を孫世代は望んでいる。それでも武術なぞをやりたいのか?しっかりと自問すると良い。
だからこれから武術を学びたい人はよく観察しなければならない。数多ある教室を表面的に見ただけでは良し悪しは分からない。兎にも角にも審美眼を磨くことだ。
師は言われた「武術バカには武術が出来ない」
そのため「肉体労働をやれ」に戻る。もちろん肉体労働だけでは会社は成立しない。
会社というのは事業目的があり、事業計画があり、営業部隊がいて、生産部隊がいて、販売部門があって財務・労務を司るものがいてやっと給料が払える物ができる。全部つながっているのだから全体に目を配ることができれば自分の身の処し方に気づけるはずだ。
良い会社かどうかは働いている人間を見れば分かる。良い教室かどうかもそこで学んでいる人間を見れば分かる。人として正しいかどうか?それをどう判別すればいいだろう?
判別する能力
それを得るのに必要なものは「運」だ。自分の努力だけではどうしようもない。あきらめろとしか言えない。
あなたが川に落ちたとする。体を大きく動かしてバシャバシャすれば気づいて助けに来てくれるかもしれない。だがあなたを助けるために川に飛び込んだ人が水泳が得意かどうかは分からない。あなたが藻掻く程に騒ぎが大きくなり集まる人も増えるが体力は急激に奪われていく。暴れるほど体は力んでいき水に対しての浮力を失っていく。バシャバシャせずに力まずに浮かんでいれば、運が良ければどこかの岸に接岸できるかもしれないが、運が悪ければ海まで流されて助からないだろう。或いは流されながら助け出せそうな人が通りかかったときだけ全力を出しても良いかもしれない。
どれが正解につながるかなど分かろうはずがない。地震も洪水も隕石も人を選んではくれない。
サンデル教授が指摘してるように「努力できる環境に生まれた事自体が運」だ。
選ばれたなどと自惚れるな、運良く救(掬)われただけだ。



