はてしない夜の夢

永久に常しえに続くことは何としあわせな悪夢でありませう。

Never-ending story of the night.


   

ダ・カーポ

4月9日


予約していた稲作の体験ツアー。
ネットで申し込みを済ませていたので定刻が来ると自動的に“移動”が始まる。
毎年この時期になると大量の予約が入るようだがVRによる参加なので定員オーバーになることはない。
昨年が不作だったので土壌の養分は消費しておらず、今年は関連生態系の活発な繁殖が見込める。


5月21日


田植えまでの工程が無事に終了した。
SNS上ではいつも通り記念写真が氾濫している。
ご近所さんは植林や養蜂の体験に参加したようだ。
もうすぐ梅雨時なのでオプションの和傘を発注しておいた。


6月16日


梅雨入りしてSNSでは毎年恒例の和傘コラボが花開いている。
この時期はインドアイベントが盛況となる。
別に雨が降っていても苦も無く田んぼを観察できるのだが慣例というやつだろうか。
私も提灯制作を始めた。
ご近所さんは花火を作るらしい。
今年も海上ドローンから打ち上げるのだろう。


7月7日


今年も七夕がやってきた。
太陰暦ではこの時期ではないらしいが現行の太陽暦に慣れてしまっているので今更データ更新する気にもなれない。
よってまだ梅雨真っただ中なので地上では天の川も見えないが、今はドローンを飛ばして見に行けばいい。
ご先祖様たちのロマンチスムを少しでも理解しようと試みてはいるが、やはり実感は湧かない。


8月6日


今年も新種発見の報告が相次ぐ。
CO2の減少に伴う酸素濃度の上昇により、オゾン層も大部分が回復しており地球環境は若干熱帯寄りになっている。
現代の課題はCPUの排熱をどうするか。
中央政府システムでは連日技術更新会議が続いていて、それこそ白熱しているといえよう。
更新完了前に熱でサーバーダウンしなければいいが。


9月15日


まもなく収穫日となる。
またネット上では記念写真で溢れかえるだろう。
私のメモリもだいぶ散らかってきたので最適化をかけて過去の記録は圧縮保存しておこう。
昔から片付けが苦手で妻には、よくお小言を貰っていたっけ。
収穫が終わったらスコア計算をしてデータバンクに登録をする。
なんのことはない一種の娯楽なのだから。


10月11日


この日は私にとって大事な日である。
あの時の妻の決断は正しかったのか?
今でも私には回答が出せないでいる。
私だけではないはずだがウェブ上のどこを探しても、これだけは答えが出せないのかもしれない。
気持ちとか感情とか、そう言った生物的な楔から解放されても悩みや迷いが消えることはない。
この悩みや迷いが私を人と定義しているといえるだろうか?


11月30日


随分と気温も下がってきた。
おかげで快適に過ごせる。
農閑期に入るとアウトドアイベントは紅葉や雪山の鑑賞が目白押しとなる。
今年は何処を見に行こうか?
最近の流行は敢えての低スペックドローンを飛ばして高山に挑戦することらしい。
だが破損した機体の回収と清掃が社会問題化しているのでいずれは規制が掛かるのではないか。


12月24日


今や何の意味もない日付の記念日だが慣例なのでしょうがない。
毎年ご近所さんや遠方の知り合いから大量の写真データが送られてくる。
こちらも負けじとデータ送信するが、お互いに社交辞令みたいなものなので明日が来れば全て削除する。
だが今年は少し雰囲気が違う。
Xデーが近いらしい。
その時我々はどのような反応をするのだろうか?
今となっては・・・・・・。


1月12日


・・・・・・。
今日最後の一人が死んだ。
彼はデータ転送を拒んで生物としての死を選んだ。
私の妻と同じように・・・。
欲求や感情があるからこそ理性の輝きがあるのだと、生前の彼は生体としての人類に、そう呼びかけデータ転送を思い留まらせてきた。
生物人間としての矜持、彼はそう言った。
彼に従うものも居たが異端視され世間からはカルト宗教のように扱われていた。
私の妻は彼が世に出るより遥か前に生きていたが同じ考えのようだった。
妻はカルトだったか?
私には最早分からない。
正しさとは何か?
人間にとって正しいとは?
生物にとって正しいとは?
地球にとって正しいとは?
少なくとも後者2種にとって人間のミームデータの転送は正解だった。
生物としての人間減少に反比例するように生態系は回復していった。
毎年新たな種が見つかり生物の多様性も戻り、空気も水も汚染されることはなくなった。
生物としての人類の存続を唱えた彼は果たして、この事実をどう捉えるのだろう?
こうしてこの日、生物種としての人類は絶滅した。


2月13日


形式としての喪の期間が終了し通常運転に戻った。
今後もう二度と葬式というイベントは発生しないだろう。
だが少し疑問も出てきた。
現在の我々は人間だろうか?
記憶媒体にプログラムデータとして存在し、電波を介してドローンを操作したり写真を転送している我々には実体としての存在がない。
メモリが摩耗することは、ほぼ無いしエネルギーの枯渇も現時点では考えられない。
太陽が最大限膨張して終焉を迎えたとしても、まだ何億年も先の話だし、それ以前に地球外への遊覧は今や常識で何の障害もなく近々時速1光年の高速移動船も完成する。
他の天体でも環境改善プログラムで生命体の移住もできるだろう。
ここでふと気づいたが、このままこの地球上で生態系の活発な発展を促し続けていれば知性を持った人間みたいなものがまた発生するのではないか?
そのように考えると大昔に流行った謎の超古代文明というのも今の我々の立場からするとあながちあり得る話なのではないか。
とすると新たに発生した“人間”に対して我々は所謂“神”と言えるのではないか?


3月29日


そろそろ今年の体験ツアーを選ぶ時期になってきた。
今となっては全く不必要な作業を我々は毎年毎年行っている。
生物種としての名残がそうさせているのか?
そのおかげで環境が改善し、生物の進化を促しているので人類の罪滅ぼしとでも言えようか。
今年はサツキマスの追跡調査に参加しよう。
太平洋の海中遊覧は初めてなので興味深い。






追記(過去ログより)


ある年の10月11日


私のデータ転送は妻の命日に指定した。
人間としての私は横たわり頭に大きな機械を付け決定ボタンを押すのに長い時間がかかった。
その時の感情を私は覚えていない。
肉体を失った時点で感情というものは喪失している。
だがその時の顔の画像だけは残っていている。
私は何故かその画像をトップに置いて何度もチェックする。
何とも言えない不思議な表情。
その隣に生きて元気だった頃の妻の画像。
このような思い出を大切にする行為は感情によるものなのか?
それとも慣例なのか?
全てが計算されつくしたロジカルな存在になっても分からないことが尽きない。
これは私が人間である証なのか?
前時代の“神”もまた・・・。

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