はてしない夜の夢

永久に常しえに続くことは何としあわせな悪夢でありませう。

Never-ending story of the night.


   

・好日・呈茶・三世

3月31日、清州城、春の桜まつり
強風吹き荒れる中、お勉強を兼ねて参加することに。
いつものお稽古のようにラフな格好は許されないので少しばかり堅苦しい服装で、久しぶりに電車に乗って行ってきましたよ。
髪の毛を纏めるのに手間取って結局先生の助けを借りることに。
若手で男性ということで否が応でも目立ちまくり、とにかくお姉さま方に「先生!こっち!」と呼ばれて主に力仕事担当で会場準備を進め、先生の先生(以下、大先生)からも挨拶そこそこに、あれやこれやと御指示頂き一段落したところで順番に振舞茶とお菓子を賞味。
いわゆる「おしごと」ではないので何とも言えない不思議な空気感があり、独特の言い回しに興味津々となる。
たとえば「社中」とか「先生」とか。
「先生」に関して言えば中国語の呼びかけとほぼ同じ扱いなのかな?と感じる。
「社中」は特定のコミュニティのようで私は当然先生の「社中」扱いで、大きな括りで大先生の「社中」にもなる。
呈茶会の参加は今回2回目なのだけど前回は忙しくて先輩方とは殆ど話せず、が今回は強風の上に気温も低く客足が悪いため色々なお話しをすることになった。
お姉さま曰く「あなたの先生は若手で実力もあって良い指導者ですよ」とのことで、武術といい茶道といいつくづく指導者に恵まれているのだなぁと。
そんな中、暇を持て余したタイミングでお稽古をすることに。
といってもお湯も沸かさずお茶の粉も使わずのエア茶道で、しかもちょっと季節外れの夏の平点前。
私は関節が人より余分に曲がってしまうため、よく先生に「おかしいわねぇ」と言わせてしまう。
当の本人的には痛いとか無理とか感じないので外から見ると不自然な動きになっているらしいのに全く気付かない。
柄杓を持ってお湯を汲み、お茶碗に注ごうとした時に不意に後ろから「失礼いたします」と大先生に声を掛けられた。
「肘を・・・・して・・・・」と言われて「はっ!!!」とする。
いつも柄杓のお湯を注ぐとき先端がブレていたのに、、、全くブレなかった!
「てかじぶんこれいつも武術でやっとるやん!!」
てことは武術の場合も・・・・を・・・・にすれば・・!


かつて田中与四郎さん(千利休のこと)は茶道についてこう言ったそうだ。
「ただお茶を点てて飲むだけのこと、何をそんな難しいことがあるのか」
若い顔見知りの男性に私が茶道を習っていると伝えたときに「あんなのただお茶飲むだけじゃん」と言われ『10年位前の私なら食って掛かったかもしれないな』と心の中で呟いていたのを思い出した。
彼が言ったことは茶道の真理そのものでしかなく、その「ただお茶を飲むだけ」に至らないことに我々は苦心惨憺している。
武術もまったく同じように「ただ打つだけ」に皆苦心惨憺している。
「ただそうするだけ」と言うのは自然体であるということ。
自然体とは無理がないこと。
当たり前のこと。
人間の体は曲る方向と曲がらない方向があり、曲がりやすい方向に曲げるように、無理そうなら遠回りでそのように、上がるように上げ、落ちるように落とし、伸びるように伸ばすだけのこと。
答えは自分の体が知っているはずなのに、人はその答えが中々取り出せない。
どうしても限界に挑戦して無理をするし、人にできないことをやって得意がろうとする。
我執、この一語にすべて集約される。
この我執によって真の自己表現から遠ざかっているとも気づかずに不自然な得体のしれないものになっていく。
伝統芸能を受け継いでその最先端で革新的なことのできる人は本当に素晴らしい。
ただ我流なのではなく古典も表現でき、その下敷きの上に創意工夫を重ねることができるというのは表現者としても幸福なことではないか。
だからぜひ一度スーパー歌舞伎を見に行きたいのだけどお高いのよね。
能とか狂言も興味があるけど見に行ったらぐっすり眠れる自信がある。
お金を払って眠りに行くのは忍びないので何とか貯金して御園座に行こう。
学習の上で3世代が揃っていることは非常に幸運だし機会が得られるなら、より上の世代から直接教えを受けるべきだと思う。


武術の師爺に大阪で会った時、偶然にもとんでもない秘訣について公開していて、しかもその場にいた殆どの人が気づいていなかったという状況に遭遇した。
完全に不意打ち的な流れで、もしこれまでの何かのタイミングがちょっとずれていたら私も同じく気づかなかったと思う。
知ることはできても自分の血肉にするのは程遠い。
このまま墓まで持っていくことになるのか、それとも見事に修得できるのか。
でもそれはまた別のお話。

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